當前位置:
首頁 > 娛樂 > 草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



水玉をモチーフにした作品で知られる前衛芸術家?草間彌生さんが、2016年の文化勲章を受章することが明らかになりました。文化勲章の親授式は、11月3日に皇居で行われます。

以圓點為創作主題被人們所熟知的前衛藝術家草間彌生,獲得了2016年的文化勳章。11月3日,在皇居舉行授勛儀式。


草間さんは1929年生まれの87歳。2016年には米「タイム」誌で「アートの世界で急進的で革命的なことを成し遂げてきた」として『世界で最も影響力のある100人』に選出されるなど、海外でも高く評価されています。


草間出生於1929年,已經87歲高齡了。2016年被《時代》雜誌選為「在藝術世界進行先鋒革命」的「世界上最具影響力的100人」,在海外的評價也頗高。

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生


草間さんの描く「水玉」モチーフの作品は「ドット?ペインティング」とも呼ばれています。この獨特な世界は、どうやって生まれたのでしょうか。


草間描繪的以「圓點」為主題的作品,被稱為「點描畫」。這種獨特的世界,是如何誕生的呢?

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生


病気による幻影に苦しんだ幼少時代


在疾病的陰影下,她的兒童時代十分痛苦


(1939年10歳のときに母親を描いた絵)


(圖為1939年10歲時的她畫的母親)


スミレの花が人間に見え、話しかけてきたこともありました。見たものをスケッチブックに描いて、恐怖や驚きを鎮めたのです。それが私の絵の原點です。

會把紫羅蘭花當作人類看待,和它說過話。把看到的東西在素描本上畫下來,能平息恐怖感和震驚感。這就是我繪畫的原點。

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



10歳の頃から統合失調症に苦しみ、襲いかかる幻覚や幻聴から自分を守るため、それらを絵に描き留め続けました。草間さんの作品モチーフのかぼちゃも、そんな幻覚の一つ。そんな幻覚に基づく體験は、現在も続いているのだといいます。

從10歲開始她就因精神分裂症而痛苦,為了保護自己不受幻覺與幻聽的襲擊,才開始用畫畫來控制。草間的南瓜作品,也是她的幻覺之一。以幻覺為基礎的體驗,至今持續著。


16歳で頭角を現し28歳で単身アメリカへ


16歲展露頭角,28歲單身赴美國


草間さんが芸術家としての頭角を現してきたのは、16歳の時。「第一回全信州美術展覧會」にわずか16歳で入選を果たします。高等女學校卒業後は、京都市立美術工芸學校で日本畫を學びました。寢食も忘れ、毎日數十枚を描き続けたいた日々。


草間在16歲時作為藝術家展露頭角。僅16歲就入選「第一屆全信州美術展覽會」。女子高中畢業後,她進入京都市立美術工藝學校進修日本畫。每天廢寢忘食地畫畫,一天能畫幾十張。


その頃に開いた個展で、精神科醫の西丸四方氏が作品に感銘を受け、草間さんをバックアップ、その後の生涯における理解者となるのです。


那時在她開的個展上,精神科醫生西丸四方對她的作品感動不已,成了在草間背後支持的終生知己。


そして理解者を得た草間さんは、ますますその世界観を深め広げて行きます。そして28歳の時、単身アメリカへ渡ったのです。


而獲得知己的草間,更進一步深化了自己的世界觀。在她28歲的時候,單身赴美國發展。

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



命がけで獨創的なことをやってきました


堵上性命的獨創作品


水玉は當時だれもやっていなかった。命がけで、獨創的なことをやってきました。母は畫家になることに反対し、絵を破られ焼かれてしまいました。アメリカへ行ったからこそ芸術家になれたのです。おそらく日本にいたら自殺していたでしょう。自殺を忘れるために描き、描くことで救われたのです。


圓點是當時誰都沒做過的東西。她堵上性命,進行了獨創。母親反對她當畫家,甚至撕毀、燒毀她的畫作。她遠赴美國才成為了藝術家。如果在日本的話,說不定就自殺了。為了忘記自殺而不斷畫畫,正是畫畫救了她。

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



ニューヨークでは、日本から持っていった金も底を突き、貧しい生活でした。冬は寒く寢つけないのでひたすら絵を描きました。スタジオでは早朝から夜中まで大きなカンバスに網を描き続けていました。


她到了紐約後,從日本帶去的錢都用完了,過著十分清貧的生活。冬天冷得睡不著,就不停地畫畫。在工作室里從清晨到半夜不斷地在巨大的畫布上畫網。


そして1959年10月、ニューヨークのギャラリーで個展を開いて発表した「無限の網」が、米紙ニューヨーク?タイムズや美術雑誌で取り上げられ高い評価を得ます。これをきっかけに1960年にはニューヨークの一流畫廊と獨佔契約を結びます。そして、アンディ?ウォーホルやクレス?オルデンバーグやジョージ?シーガルらとグループ展示を行うなど、世界のポップ?アートの波に乗って行くのです。


1959年10月,在紐約的畫廊開了個展,並發表作品《無限的網》,並在美國紐約時報和美術雜誌上獲得了高度的評價。以此為契機,1960年時,她與紐約一流的畫廊簽訂了獨家合約。之後,她與Andy Warhol、Claes Oldenberg和George Segal舉辦了團隊展覽,趁著世界的流行藝術浪潮勇往直前。


草間さんの活躍はそれだけに留まりませんでした。1967年以降はニューヨークを中心にオランダ、ローマなど世界的に活躍。芸術作品だけでなく、クサマ?ドレスやテキスタイルも手掛け、1969年には自身のブティックを開店と様々なジャンルで活躍して行きます。


草間的活躍並沒有就此止步不前,1967年之後,以紐約為中心,在荷蘭、羅馬等世界級的藝術殿堂大展身手。不僅是藝術作品, 還參與了禮服業及紡織業,1969年開了自己的時裝精品店,在各個領域都十分活躍。

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



ジョセフ?コーネル氏との出會い


與約瑟夫·柯內爾的邂逅


ニューヨークを拠點にしていた1962年、草間さんの人生においてとても大きな出會いがありました。親友でありパートナーとなるジョゼフ?コーネル氏との出會いです。


以紐約為據點的1962年,草間出現了人生最大的邂逅。那就是與既是好朋友又是伴侶的約瑟夫·柯內爾的相遇。


コーネル氏は、著物姿の小柄でキュートな草間さん一目惚れ。出會った翌日から、郵便箱があふれるほどの詩を贈り、一日に何度も電話をし、5時間以上も話しこむ事もあったそうです。


柯內爾對穿著和服、嬌小可愛的草間一見鍾情。在相遇的第二天開始,她的郵箱里就塞滿了他寫來的詩歌,一天要通好幾次電話,甚至煲電話粥達5個多小時。


お互いをモデルに絵を描いたり、コーネル氏から山の様に作品を贈られたりと、芸術家同士である2人は、深く理解し合い、共鳴する様に共に過ごし、作品を作り続けました。草間さんは今でも、この時のコーネル氏の作品を幾つか大切に所有しています。


他們互相作為模特進行繪畫創作,柯內爾還送了她堆積成山的作品,同為藝術家的兩人靈魂相契,非常有共鳴,不斷地創作出作品。草間至今仍珍藏著柯內爾的幾件作品。

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



(コーネル氏の描いた草間さん)


(柯內爾畫的草間)


パートナーの死、絶望の中から生まれた新たなる創造


因伴侶去世,在絕望中誕生了新的創造


しかし1973年、かけがえのないパートナー?コーネル氏が心臓の疾患で亡くなってしまいます。草間さんの悲しみは深く、この事が原因で大きく體調を崩し日本に帰國。入院してしまいアーティスト活動もしばらく出來ない狀態でした。


然而,1973年,不可或缺的伴侶柯內爾因心臟病去世。草間陷入極度的悲痛之中,也因為這個原因身體衰弱,回到了日本。入院後,暫時處於無法進行藝術活動的狀態。


しかしそこから、1975年には個展を開催。「冥界からの死のメッセージ」と題するコラージュ作品を展示しました。また、1976年には個展「生と死への鎮魂に捧げる-オブセッショナルアート展」を開催。コーネル氏の死に必死に向い合う草間さんの戦いだったのかもしれません。


但不久後,在1975年她開了個展,展示了題為「從冥界傳來死的訊息」拼貼畫作品。另外,在1976年舉辦了「獻給生與死的鎮魂-妄想藝術展」。這也許是草間努力讓自己直面柯內爾的死亡吧。


1977年に再入院するも、草間さんはここから更なる世界を広げます。彼女の幼年期の幻視體験をモチーフに小説を執筆、1978年には処女小説「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表します。そして1983年には「クリストファー男娼窟」で、第十回野生時代新人賞を受賞するのです。


1977年她再度入院,草間從此展開了更為寬廣的世界。她以幼年時期的幻覺體驗為藍本,撰寫小說,1978年發表了處女作《曼哈頓自殺未遂慣犯》。之後在1983年以《克利斯朵夫男娼窟》獲得第十屆野生時代新人獎。


草間さんにとって、入院生活はマイナス要素になるどころか、作品を生み出す基盤となり、現在も病院を拠點とした製作活動を続けています。


對於草間來說,住院的日子並非是消極的,而是創造作品的基礎,現在她仍以醫院為據點持續創作活動。

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



小説という新たなジャンルで創作活動を再開し、深い悲しみから復活した草間さんは、1990年代の初め頃に再び芸術作品に活発に取り組み始めます。それと同時に、世界的に評価も高まり、2012年には世界的有名ブランドのルイ?ヴィトンとのコラボレーションを発表。活動の幅を更に広げて行くのです。


重新開創小說創作活動的新領域,從深痛的悲傷中復活的草間,在1990年代初期再次開始活躍於藝術作品的創作。與此同時,她在世界上的評價也越來越高,2012年和世界著名的品牌LV聯合發表了作品。活動的範圍越來越深廣。


一生は一度、大いに戦っていきたい


一生一次最大的挑戰


「恐慌性障害で30年以上も苦しんだ。困難に勝つために描き続けた。芸術は私にとって最高の醫師。私は描くのが大好きで、寢る時も描き、死ぬまで描くつもりだ。皆さんが私の作品を鑑賞し、愛してくだされば有難い。私の美術は愛、無限の宇宙に対するメッセージのようなものだ」


「在三十多年恐慌性障礙的痛苦中,我為了戰勝困難不斷畫著。對我來說,藝術是最好的醫生。我非常喜歡畫畫,睡著的時候也在畫,決定要畫到死為止。大家能欣賞、喜愛我們的作品,我感到非常榮幸。我的美術,是對愛以及無限宇宙的一種訊息。」

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



絵を描くときは無我夢中です。仕上がってみて、なかなか自分でもよく描けている、と思うのです。そこで初めてすこし客観的に見ることができます。最初から出來上がりが見えていることはありません。どうやって描くのかは、手に聞いてほしいくらいです。


畫畫的時候非常忘我,畫好以後,我自己都覺得畫得不錯呢。在這方面,稍微能客觀看待自己了。最初的時候後,並看不到完成後的樣子,到底是怎麼畫成的,我真想問問自己的手。


10月27日に行われた記者會見では「とても感激している」としながらも「受賞は一瞬のこと。私は絵を描いている方が幸福」と語った草間さん。


在10月27日舉行的記者招待會上,草間邊說著「非常感謝」邊坦言「得獎的這一瞬間,我還是覺得畫畫更幸福」。


現在は、2017年2月に國立新美術館で行われる過去最大級となる個展「草間彌生わが永遠の魂」に向けて、週に6日、1日9時間描き通しの日々なのだそう。「毎日オリジナルの作品をつくるので、頭の中がいっぱいです。一生は一度しかありません、大いに戦っていきたいと思います」と語りました。


2017年2月,在國立新美術館即將舉行史上最大級別的個展《草間彌生 我們永遠的魂》,每周六天,每天9小時的繪畫人生,她還說道「每天都在原創作品,腦海中滿滿的。一生只有一次,我想要迎接更大的挑戰。」

草間彌生的傳奇經歷:畫畫拯救了她的人生



「私が死んだ後も、私の創造への意欲と、芸術への希望と、私の情熱を感じていただければ、それに勝る喜びはありません」


「我死後,也希望我對創作的意願、對藝術的希望、對我的熱情,能留存於世,就備感欣慰了。」


請您繼續閱讀更多來自 滬江日語 的精彩文章:

新垣結衣和星野源的這一幕,讓這部劇的收視創下自身最高
《校對女孩》為何在服飾搭配上如此用心?
菅田將暉訪談:年輕時累一點不是很好嗎?
拍攝過真人版的那些JUMP漫畫
冬季日劇再定檔:木村拓哉上劇,搭檔竹內結子

TAG:滬江日語 |

您可能感興趣

童年經歷戰爭,成為一生夢魘,他畫出活生生的地獄,震撼世界
《我的前半生》中的演員,都是些有人生經歷的人
2位寶媽的親身經驗:早生和晚生,你將經歷不同的人生
康熙帝的幼年求學經歷,愣是被活生生寫成了聊齋里的狐狸鬼怪
神奇!從生產到出生,胎兒原來經歷了這些
一位順產媽媽的生娃過程,真是活生生的揪心經歷!
史上最心塞的抓娃娃經歷,簡直要懷疑人生了!
人生中我們所經歷的關於生活和活著
風華絕代的民國女性,傳奇一生的經歷,嚴幼韻的百年人生落幕
國外生活經歷對人的一生產生多大影響?
2位寶媽的經歷告訴你:早生和晚生,你將擁有完全不同的人生
兩位寶媽的經歷告訴你:早生還是晚生,決定了不同的人生
火星和地球有同樣的經歷 為什麼沒有誕生生命?
老家山村的陰龍灣,與玩伴去洗澡發生了一件悚人的經歷
女人一生要經歷的愛情
生孩子要經歷的幾種痛
一次奇異的經歷,猜度靈魂轉生的奧秘
一生感情經歷較多的生肖
天才畫家——凡·高的人生經歷